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Letters from the School

柳心照智流たより

A continuing series of essays from the school on the roots of the Japanese people, the spirit of bushido, and the harmony our ancestors sought. These essays are published in Japanese only.

Letter 35 — 第35話

武士道(9)

~武士道精神の確立~(その一)

武士道の原点は鎌倉時代に形成されたと言っていいでしょう。それ故に今までいろいろ述べさせていただきました。

この鎌倉時代は、江戸幕府が基本とした武家政権の原点でした。平和な江戸時代を築くに重要な武家精神のよりどころが作られていったのです。それにより武士道が確立し、今日に至っています。

武士道の過程は、大きく分けて五つに分類出来ます。

第一、武家政権誕生(鎌倉幕府)

第二、それ以降から戦国時代に至る混乱の時代。

第三、徳川家康によって作られた平和な武家政権体制

(本格的な武士道精神の確立)

第四、明治時代に始まる軍人の横暴と幾多の戦争経験

第五、第二次世界大戦敗戦後の新たなる日本武士道の構築

一番目の武家政権の誕生を見てみましょう。鎌倉時代以前に平家は実質的に国の政権をほぼ握っていました。しかし、あくまでも幕府ではありません。

幕府とは、頼朝が征夷大将軍に任命されたことにより始まります。もともと頼朝の館を幕府と自ら呼んでいたからとも言われております。頼朝により鎌倉に武士の新たな拠点が作られ、征夷大将軍に任命されました。しかし、征夷大将軍とは、将軍という肩書きの中では下の方です。征夷とは蝦夷を討伐する、つまり東の未開人たちを征服する任務を負った将軍という意味です。私たちが今考えている幕府確立の基本は、承久の乱からと考えていいかと思います。

承久の乱は後鳥羽上皇によって、再度天皇を中心にした国を目指すべく起こされた軍事行動です。文武両道に秀でた後鳥羽上皇は、日々力を増しつつある鎌倉の征夷大将軍たる頼朝に危機感を抱いておりました。

しばらくすると、天皇による政治を再びとり戻すチャンスが訪れます。それは、頼朝以降続いた源氏は三代で滅びてしまいました。すぐに上皇は全国の武士団に鎌倉幕府討伐を呼びかけ、武装蜂起をはかったのです。しかし、無残にもそれは失敗に終わりました。上皇は隠岐島に流され、また時の天皇は佐渡島へ流されました。

余談になりますが、私は佐渡島を訪れたおりに、順徳天皇の墓陵を詣でました。都へ二度と戻れぬと知った天皇は悲しみをいだいたまま幽界に行きました。それを祀る立派な天皇陵がありましたが、あまり手入れの行き届いていない寂しい感じもしました。すでに夕暮れが迫っており、薄暗くなった天皇陵にある竹やぶは、風に流されてか、カンカンと竹が当たる音が御陵中に響き渡り、なぜか天皇の心の寂しさを訴えているかのように思われました。

鎌倉幕府は承久の乱の後に上皇を始めとする貴族およびそれに味方した豪族の所領の多くを没収しました。その領地はおびただしいもので、数千に及びます。それを鎌倉幕府は味方した東国武士を始めとして分け与えました。それによって武士は鎌倉幕府に大恩を感じ、そのためにはいつでもご恩返しとして、「いざ鎌倉」の名のごとく兵を出す奉公の気持ちを強く持っていったのです。ここに封建社会が出来上がりました。幕府に、または己の所属している大名、豪族に武士は忠誠を立て奉公する。その精神の基本もここに出来上がったのです。これがまさに江戸幕府が基本としたものと言っていいでしょう。

江戸時代の武士道精神の骨格となる五つの言葉の

(忠)(義)(礼)は、鎌倉時代における武士の幕府に対する大切な精神となり、継承されていくのでした。 一 つづく 一

Letter 34 — 第34話

武士道(8)

~方丈記~

平家物語では、天皇、貴族、平家一門の都でのあり様が書かれておりますが、その反面、世捨て人の眼で同じ時代を綴った有名な本があります。それが『方丈記』です。

著者の鴨長明は、京都を見下ろせる山中で、一丈四方足らずの小さな庵を建て、そこで世の有様を記していました。その『方丈記』の冒頭に「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」と記しております。栄華を極めた平家一門も、所詮は川の流れに浮かぶ、一つの出来事にすぎなかった。これは、『平家物語』の冒頭の思想と一致しておりますこの時代は、ブッダが亡くなり、二千年が過ぎ、末法の時代に入ったと恐れおののく京の人々は、この時代の混乱と重ね合わせて見ていたのではないでしょうか。

1177年大火事で京都が焼き尽くされました。

その数年後、「治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹きけることあり。」多くの建物が竜巻と思われるものでなぎ倒されてしまいました。

そして1181年から1182年にわたって大飢饉が起きます。方丈記によると、最低でも4万人以上の都人が餓死したと記されています。

そこからようやく回復しつつあった京都に大地震が襲います。いわゆる元暦の大地震です。近年起きた阪神大震災に匹敵する規模と推測されます。

数年ごとに繰り返される人智の及ばない大災害の中、さらに平家にとっては致命的なことがいくつも起こります。

1180年に福原に都を移したものの、また数年足らずして京都へ戻ってまいります。その経済的な負担および人心に混乱が起きたのは間違いありません。

そして東国では源氏が次から次へと反平家の狼煙があがり、不穏な動きが始まってまいりました。このような大災害の中で平家は都の復興と同時に源氏に対して軍事行動を起こさざるを得ないあやうい状況に押し流されていったのです。

鴨長明から見て、このような大混乱も流れゆく一つのこととして『方丈記』にしるしたものだと思われます。平家物語の権力の奪い合い。そして方丈記での人としてのあるべき生き方、人生の楽しみ方。両方の面から、後世の武将たちは流れの中の自分の置かれた姿を映し出していたのでしょう。

それがやがて武士道精神の大事な軸を形成してゆきます。

『平家物語』、『方丈記』から大きな歴史の流れというものを感じます。その中で、その背景にある人の心のありようが見て取れます。

昨日までの栄華が一瞬にして消え失せ、己一人を持て余すような寂しい人生へと落ちていきます。まさに無常の世の中であります。多くの出来事が現れては消えゆく。そしてそこに因果を感じ取ることができます。歴史から学ぶというのは、まさにそれではないでしょうか

私たちは表面的な歴史の出来事を追いかけていくのではなく、その背景にある世の流れ、そしてその中の人生を学び、己が悟りへと返していくことが肝要ではないでしょうか。

まさに、それを教え、それを学び取るのがこの鎌倉時代の武家政権なのかもしれません。

『今、想うこと』

世界は各地で大小問わず紛争が続いております。というより増え続けているのかもしれません。

そして、この数百年続いたヨーロッパを中心とする文明、またその後のアメリカの文明。これが衰退しつつあるように感じます。

また、かつて植民地であった国々から移民が大量に流入し、逆に今度はその国の治安を脅かすし、近い将来乗っ取られてしまうのではないかという不安が、各国各地で芽生えてまいりました。

平家物語の冒頭の「諸行無常」や「驕れるもの久しからず」の言葉は今でも私たちに語りかけているように思います。

平家物語がまさに今、繰り返されているかのような気持ちにとらわれる昨今です。

Letter 33 — 第33話

武士道とは(7)

~平家物語~

有名な『平家物語』は、平家一門の繁栄から滅亡に至るまでの経緯を物語としてまとめたものです。そこに語られることは、まさに今まで述べてきたような人間の性(サガ)とも言われる歴史が綴られております。鎌倉時代以降数百年かけて培われていく武士道の根底を理解するには必要な書物の一つです。

『平家物語』の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」とあります。その「諸行無常」とは何でしょうか。すべての物事は、常に流れている。一時として止まっていない。それ故、悩みは果てしなく生まれる。次に「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」と続いています。盛者必衰とは、まさに時代を牛耳る人たちも必ずその流れの中で滅びていく。決して永遠に続くことはあり得ない。

さらに「驕れるもの久しからず。」と続きます。権力の頂点に立ち、絶頂を迎え、それが自信となり慢心となっていく。人間の愚かさを言い当てたものです。平清盛を頂点に都で栄えた平家一門のことを、そこに記していたのでしょう。

それは鎌倉幕府を作り上げた武士にも同じことが繰り返されていきます。その後も頂点に立つ武家の政権は、新たに登場しながらも、歴史の舞台から消えていきます。そのようなことを繰り返さぬよう武将たちは『平家物語』を学び、権力のはかなさを知り、安定政権を作ることを目指したのでしょう。

琵琶法師によって、弾きづかれる平家物語を聴きながら武将達は、やがて訪づれるであろう一族の没落を感じていたのかもしれません。

『今、想うこと』

最近は温暖化の影響も著しくなり、ヨーロッパでは歴史上経験したことのない猛暑が襲い、数万人もの人が亡くなりました。また、ネパールと中国の国境では氷河が崩れ、そこでも信じられない大災害が起こりました。それ以外でもニュースでは報道しつくされない程の大水害、干ばつなどが世界を襲っております。

私達文明の末路なのかもしれません。

平家物語に書かれている平安末期も「末法の世」といわれ、不安に満ちた時代でした。

釈迦が生まれて千年ごとに大変化が起こると信じられていました。ちょうど平安末期がその時にあたり、「末法の世」がくると恐れられていました。

そして現代はそれから約千年後になっております。

私たちが生きる世界は、大きな波の中で浮き沈みしつつあるようなものなのかもしれません。そのようなことを感じながら「たより」を皆様方に書いておりました。

Letter 32 — 第32話

武士道とは(7)

~禅宗(臨済宗)~

平安時代の末頃、日本へ伝えられた禅宗は、当初は限られた人々のみでした。しかし鎌倉時代になると武士階級の間に広く受け入れられるようになり、やがて、武士道に大きな影響を及ぼしていきます。

日本には、既に飛鳥時代から平安時代に至るまで多くの仏教勢力が生まれておりました。その仏教勢力の中心とも言える比叡山は、天皇の政治にまで介入し、聞き入れない場合には、いわゆる僧兵の武力をもって朝廷をねじ伏せるほどの力を有していました。京都にいた平家も同じように仏教勢力との対立が大きな悩みとなっていました。

そこで鎌倉幕府の2代将軍頼家は、禅宗の臨済宗に目をつけ、それを対抗勢力として作り上げていったのです。京都にある建仁寺、また東福寺はその象徴とも言っていいでしょう。建仁寺は特にお茶の本を初めて発行し、茶道の源流とも言ってよいでしょう。その本は「喫茶養生記」と記され、現代の「喫茶店」の名称のもとにもなったと考えられ、身近に感じられます。 ここでよく誤解される言葉があります。禅宗の「禅」とは、私たちが武士道でいう禅と少し混同しているところもあります。「禅」とは、古代インド語の「ディヤーナ」で瞑想や精神集中を表す言葉でした。それが中国に伝わり、その音を「禅那」と表現しました。この禅という表現は、広く古代日本で既に使われ、修験僧が山に登り、世俗を絶って自然の中で修行を行うことを意味していました。例えば、有名な白山信仰です。崇神天皇(BC91年)に始まるとされる山岳信仰は、白山を霊山と見なし、そこに登る修行を「禅定」と呼んでいます。 また、山頂を「禅頂」であり、そこを目指して登る道の始まりを「禅定道」と言われました。

そして、この瞑想や精神集中によって、己の心を無にし、真実を見つめる宗教の代表格がいわゆる禅宗と称されました。最初に最も力を持ったのが、鎌倉幕府によって後押しされた臨済宗です。 臨済宗という純粋な禅宗の側面もありますが、もう一つは政治闘争の手段でもあり、この二つの側面を見ていかなければなりません。

今から千六百年ほど前に、インド仏教の僧侶が中国に渡り、この禅の思想を広めました。これが有名な達磨大師と言われる僧です。そして、その僧が禅の最も習得しやすい方法として坐禅を広めました。これが現在日本で一般に定着している禅の思想です。

前回述べた、人の恨みや怨霊などが生ずるこの俗世から己の心を切り離し心を無にする。これこそ武士の世界にはなくてはならないものであったと推測されます。また機会があれば述べますが、「心技体」の「心」とは二つの心からなっています。一つは人間本来神から与えられた純粋な心、二つ目はこの世で人として生じた心、いわゆる俗世の心です。つまり欲心と言っていいかもしれません。ここに武士道の基本的な精神の芽生えが始まったとも言えます。

鎌倉幕府の応援を受けた臨済宗は、「南都(奈良)」勢力や京都の仏教勢力に対抗し、大陸との貿易を盛んにし始めます。仏教というつながりで大陸と大きな貿易の特権をつくります。大陸から膨大な銭(銅銭)を日本に持ってまいりました。つまり、貨幣発行が国家ではなく、仏教勢力によって実質行われました。平安時代頃から、室町に至るまで、日本の国は通貨を発行しておりません。それは主に仏教勢力が大陸からもたらした銅銭によって支えられていました。現代でも通貨発行権を持つことが国家の前提です。鎌倉幕府は日本の国を握るために、臨済宗を立て、他の仏教勢力と経済的にも対抗していったものと考えてよろしいでしょう。

さらに、奥州平泉を手に入れたことで、世界最大とも言える金鉱脈を獲得しました。これらの経済規模は京都を凌ぐものとなってゆき、初の武士政権を長続きさせてゆきます。

そして、禅宗の教えは、武士の精神的な支えになっていったものと考えてよろしいでしょう。そこが現在で言われる武士道と禅宗の関係の始まりとなります。

鎌倉時代は血なまぐさい争いの時代の始まりでもありました。その中で武士たちは、戦いによって失われた多くの命を弔い、亡き人々の魂が安らかに仏の世界へ戻ることを祈りました。その祈りは、同時に自らの心を救う行為でもあったのでしょう。

そして神道の持つ自然との調和の精神と、仏教が説く慈悲や悟りの思想とが結び付くことで、後に武士道と呼ばれる独特の精神文化が育まれていきます。

武士道は単なる戦闘技術や忠誠心ではありません。そこには自然を敬い、祖先を敬い、命を尊び、自らを律して生きるという、日本民族が古代から受け継いできた精神が息づいています。

一方禅は、言葉や理屈を超えて真理を直接体得しようとする教えです。それは自然の中に神を感じてきた日本人の感性とも響き合いました。生と死を見つめ、執着を離れ、今この瞬間に全力で生きるという禅の精神は、武士の生き方に大きな影響を与えたのです。

Letter 31 — 第31話

武士道(6)

~霊魂と怨念~(その三)

前回に続き、さらに実体験をつづります。

鎌倉も夏は暑いので、毎日のように由比ヶ浜に海水浴に行きました。歩いて数十分で行けます。由比ヶ浜の海岸の手前は、当時、広い空き地でした。由比ヶ浜の砂は、黒いのですが、その空き地の砂は、灰色です。白いものがたくさん混ざっているようでした。不思議な感じがしたものです。それから十数年後に、その辺り一帯が発掘されました。なんと、沢山の頭蓋骨が積まれた大きな山がいくつも見つかりました。鎌倉幕府滅亡の折に討ち死にした兵士の頭蓋骨だったそうです。だいぶ長い間放置されたのち、集められ、頭部だけが埋められたものと聞いております。残りの首なしの遺体はどこにいったのでしょう。無念のあまりに亡くなった武士の魂は、浮かばれずにそこに居続けていたのではないでしょうか。

見えない世界をわかってもらいたく、さらにいくつか記します。それにより霊魂の存在が理解されやすくなるでしょうか。ゆえにもう一つ。これも鎌倉で実際に体験したことです。

日本の紙人形は、世界に誇る素晴らしい芸術と言ってよいでしょう。その紙人形作家の中心にいたのが「きふじ早苗」という女性です。不思議な縁で、私どもが使わなくなった鎌倉の家を、自宅兼作業場として借りてもらえることになりました。ある時、きふじ早苗に招待されその自宅へうかがいました。新作の紙人形を見ながら、お茶を飲んで談笑していました。すると、きふじは突然畳を指さして、「これを見てください。これは私の血の跡です。拭いても取り切れなかったもので残ってしまいました。」

確かに大きな黒いシミが畳に残っている。数週間前、人形制作の時に手を切ったとのこと。しかし、あまりにも大量の出血で、その血が畳についてしまった。翌日、包帯を取り替えようとその傷口を見た。しかし、どこを探しても傷口が見つからない。不思議なことがあるものだと思い、それを知人の仏師に話したそうだ。

仏師曰く、「一人前になった証しだ。」と語ったそうだ。仏師は、仏と人の世界との狭間で作業をするうちに、そのような不思議なことが起きるのだそうだ。

またある時、きふじ早苗が寝ていると、真夜中に外で人の足音が慌ただしく聞こえた。やがて家の中に入ってきて、彼女に訴えたそうだ。何を訴えたかははっきり言ってもらえなかった。翌日さっそくに、彼女は近くにある工事現場を訪れた。現場監督に会い、抗議した。それは、建築の途中で出てきた古い遺跡を届け出もせず、勝手に破壊したことを指摘した。現場監督は、なぜ知っているのかと驚いた。しかし、すぐに事実を認め、素直にきふじ早苗に謝ったそうだ。それはその土地に根付いた霊を起こしてしまい、その霊が真夜中にきふじ早苗に訴えに来たとのことだ。これもまた不思議な話ではあったが、鎌倉の霊にまつわる思い出の一つである。 また、これは友人の体験談である。ある日鎌倉のある山のふもとの森に駐車していた。夕方で、外が暗くなってきたところ、車内をのぞき込んでいる者がいた。それは、なんと鎧武者であったとのこと。

恐い話しは、これくらいで終ろう。

武士は、二つの世界に生きている。それは見えない霊魂の世界と現実の世界。

武士道を理解するうえで大事なことである。

Letter 30 — 第30話

武士道(4)

~霊魂と怨念~(その二)

その後、頼朝は、馬から落ちて亡くなったと記されています。それはあまりにも不自然です。武将が落馬ぐらいで死ぬわけがありません。しかも当時の馬は、現代から見ればはるかに背の低い馬です。多分、頼朝の役割は終えたことによる、何らかの処理がなされたのではないでしょうか。そして、その後あまりにも短い期間で頼朝の家系はすべてとだえてしまいます。三代将軍の後の将軍職は全くの傀儡であり、北条が実権を握り、鎌倉幕府を運営していきます。多分、頼朝も安らかに亡くなったのではなく、浮かばれぬ霊として自分の子孫の行く末を見ていたのではないでしょうか。

鎌倉時代の嫌な側面ですが、人を恨み、呪い、殺し合い、身内までも平気で抹殺します。殺された一部の人は怨念となり、殺した相手に降りかかるか、もしくはその土地に地縛霊のように何百年も残っていきます。しかし。これを武士の残忍さということで片付けてしまってはいけないのです。もともと日本民族は、戦争を起こさず平和に暮らしていました。それが数万年続きました。その後、大陸から収奪文明が入ってきて、奪い合いが始まります。鎌倉時代以前は、武士の殺し合いというより、むしろ宮廷における地位の争い、また悲しむべきかな天皇の座を狙っての宮家の争い。武器を使わず、心の刃でもって相手を傷つける時代が続きます。そして、鎌倉時代へとなっていくのです。つまり、刀で傷つけるか言葉や行動で傷つけるかの差です。しかし武士は、お互いに殺し合いながらも天皇を常に敬い続けました。これは世界にはないことです。

日本国の象徴と仰ぎ、天皇として奉り、その下にいる武士は、その縛りの中で日本を統治していきました。殺し合いの頂点というべき戦国時代はまさにルールなき戦いでした。それにより戦の虚しさを感じ、平和を渇望する世心が大きくなり、やがて江戸時代を迎え、平和で秩序ある二百五十年余に渡って続いていきます。世界でこのように長く戦のない封建時代が続いた例はありません。一言で言えば。鎌倉時代以降、日本民族が、殺し合う愚かさを学んだ結果とも言えます。この観点から、鎌倉時代の怨念を理解していただければと思います。

ここで、私が幼い頃に鎌倉で体験した実際に起きた亡霊話を紹介しましょう。子供の頃、夏休みは、扇谷で過ごしていました。ある時、二人の大工さんが、その扇谷の家を一部修理するため、泊まりがけで来ていました。真夜中のこと、その二人の大工さんが大声を上げて外へ飛び出して逃げてきました。顔面は蒼白で、口はガタガタと言っているほどのショックでした。夜が明けるとすぐに、東京に帰ってしまいました。そして二度と来てくれませんでした。二人ともその理由は、決して教えてくれませんでした。それから十数年経った頃、彼らの気持ちも落ち着いたのでしょう。ようやく語り出しました。それは、真夜中にガチャガチャという鎧の音がするので、二人は目を覚ましましたそうです。なんと、暗闇の中から数人の血だらけの鎧武者が刀を抜いたままこちらに向かってきているのです。恐怖のあまり彼らはすぐに家から飛び出てきたとのことです。一人なら、その亡霊を見たというのは錯覚なのかもしれません。しかし、二人同時にその音を聞き、その武者たちを見みたというのは、まさに、現実なのかもしれません。

ある時、鎌倉にお寺を持っている僧侶にこのことを話したことがあります。

「あー、そちらでも、でますか」と、僧侶は驚くことなく当たり前のように静かに受け止めていました。どうも他でもでるみたいです。

一 つづく 一

Letter 29 — 第29話

武士道(4)

~霊魂と怨念~(その一)

頼朝は将軍にはなったものの、絶対的な権力を有していたわけではありません。京都から伊豆に流人として送られ、そこで北条政子と知り合い結ばれました。それによって北条家及びその一族の強い後ろ盾が出来ました。しかし、頼朝は、豪族と違い、自分自身の直属の武将を持てず、不安定なものでした。そのために絶対的な権力を自分のものにするために、まずは平家討伐の最大の功労者、義弟の義経を亡き者にする必要があったのかと推測します。

そして、義経の子を孕んだ静御前の乳飲み子まで無残にも殺してしまいました。

しかし、義経の愛妾静御前が子供を出産した時には、義経はすでに殺されていた。それにもかかわらず、その乳飲み子が将来成人し、鎌倉幕府を倒す恐れがあるとして、無残にも由比ヶ浜の砂浜に生き埋めにされました。なんというむごいことでしょう。生れたての赤子を生け埋めにするとは。

源頼朝は、幼い頃、殺される運命にありました。しかし、平清盛の義母、池祥尼によって、幼い頼朝は助けられ、伊豆に流されました。その頼朝は成人して平家を滅ぼしました。この経験から、今度は己にそれが降りかかることを恐れ、自分の義弟の義経をはじめとし、その子供までをも亡き者としたのです。このような、血と恨みで彩られたのが、鎌倉時代の幕明けとなったのです。

また、奥州藤原一族を滅ぼすために、頼朝は、軍を自ら率いて行動を起こします。それは初めての頼朝自らの軍事行動です。それほど奥州藤原氏は頼朝にとって最大の敵と言って良かったかもしれません。

一方、奥州藤原氏は四代目泰衡の時代でした。父、秀衡が、義経を大将と仰ぎ、鎌倉勢に対抗すれば、同等のもしくはそれを忍ぶ力を持ち、藤原一族は安泰であるとの旨の言葉を残しました。しかし、それを無視して義経を妻子もろとも殺してしまいます。そして、頼朝との戦に大敗し、京都をもしのぶとも言われた絢爛豪華な都、平泉を自ら燃やしてしまいます。その後、泰衡は、配下の武将に身を寄せ、再起を図ろうといたしますが、その信頼する配下に裏切られ、無残にも殺されてしまいます。

殺された泰衡の首は鎌倉に届けられ、検分されますが、その後、奥州の金色堂に首だけが納められます。私の学生時代に、その首の調査に当たった資料を見る機会がありました。記憶は定かではないのですが、顔に十箇所近い切り傷があり、額には大きな穴が開いておりました。鎌倉で彼の首をさらす時に、額を杭で打ち付けて、さらした時の痕かと思います。今ではその写真はどこを探しても見当たりません。あまりにも衝撃的な写真でした。泰衡が殺される時に、刀が振り下ろされる瞬間、何度も身をひるがえして逃れたものと思います。体は残っていませんので、体の切り傷はいくつあるかわかりませんが、相当抵抗し、暴れたものと推測されます。なぜそこまで暴れたのか。 その写真の顔から想像するに恨みと無念の塊であったような気がいたしました。父秀衡の言葉を翻し、義経を殺し、また義経の妻をも殺し、これで藤原氏が安泰かと思った。しかし、頼朝に攻められ、大敗。その後信頼した部下に捕らえられ、そしてその部下の手によって殺される。殺される時の一瞬に、これらのことが思い出され、もがき抵抗したのではないでしょうか。しかし、恩賞を得ようとして泰衡を討ったその部下も、結局は主君を討った罪を問われ、頼朝によって命を奪われることになってしまいました。

藤原三代の遺体と泰衡の首が収められた金色堂だけが不思議に火から逃れられ、そこに今でも佇んでおります。偶然というか奇跡というか、いや、むしろそれは藤原一族の怨念とも言える思いが金色堂を残したのではないでしょうか。現に記録によれば、頼朝は、夜な夜な藤原の亡霊に悩まされたと聞きます。それにより、金色堂のそばに霊を鎮めるためのお堂を建立しました。そして鎌倉にも永福寺を建立しました。今は二つとも残ってはいませんが、鎌倉の永福寺の跡は、大伽藍と推測されます。

Letter 28 — 第28話

武士道とは(3)

~鎌倉幕府設立~

前回、武士道の発生となるのは鎌倉時代からといたしましたが、武士道が鎌倉時代に確立したものではないことは明確です。武士道の基本的な概念がまとまっていくのは江戸時代です。しかし、鎌倉時代を中心に少しずつ形作られていったと考えてよいでしょう。鎌倉時代はまさに武士が日本を治めた最初の時代と言えます。

強い者は弱い者を滅ぼし、武力によって思うがままに日本全体を動かした時代です。

鎌倉幕府創設以降、江戸時代まで武家政権が延々と続くことになります。しかし、その武家政権を安定させるまでには、多くの血が流され、数知れぬ恨みがそこに作られました。

鎌倉幕府初期には、幕府擁立に貢献した御家人の多くは、頼朝の子孫をはじめとして、ことごとく滅ぼされてしまいました。

つまり、勝つか負けるか、また別の言葉で言えば、生き残りをかけたいのちの死闘とも言えるわけです。そこに正義もルールもありません。

源頼朝が鎌倉幕府を創設したのは事実ですが、その背景には北条をはじめとする関東地方の平氏の武士たちです。面白いことに、実際は平氏が平家を倒したとも言えます。源頼朝を擁立した関東一帯の平氏の武士団は、源氏、平氏ともにうまくまとめ、一つの勢力とした賢いやり方だったのです。そして、幕府設立後は、頼朝の弟義経をはじめ、ことごとく滅ぼし、北条一族が日本を統治していったのです。賢いことに、ここで北条は将軍にはならず、執権の立場で実質政治を牛耳っていきました。京都には天皇をそのまま置き、日本古来からの伝統は守り、無駄な権力闘争を避けました。

Letter 27 — 第27話

武士道(2)

「もののふ」の誕生

「武士」の語源は矛を持って止めるの合成語と言われてきた。しかし、最近では矛を持って進むという意味の解釈が主流になっている。いずれにしても、武器を持って守るか攻めるかの違いにしか過ぎない。

敵が攻めてくれば理屈なく武器を取り防戦する。そのために、専門の武装集団が生まれていく。古墳時代には短甲、桂甲などの鉄の鎧で身を固め、朝鮮半島にまで出陣した。鎧は当時貴重な鉄で作られており、高価なものであった。日本の鉄の歴史は、わかっているだけで、約 3000年前の出土品がある。つまり紀元前1000年。大変に古く、当時、ヒッタイトが鉄を使って国を拡大させていた頃と同じ時期である。

一般的に農耕具に鉄を使えばより大きな収穫が得られるという。しかし、収奪文明の下では最新の技術はまず武器に応用される。それの方が、経済的メリットは大きい。これは今も変わらない。武人は戦のために大変貴重な鉄を使った甲冑を着用し、最新テクノロジーは、まず軍事へ優先される。そして鉄の武器、大量の鉄の矢じりに弓矢を持つ。一人当たりの武装コストは大変大きなものであり、その装備に十分応えられる強靭な人間が作られていたに違いない。そして兵士を鍛え、軍備を整える。その総費用よりも、はるかに凌ぐ戦利品や土地を獲得できれば成功である。

これを戦争経済学と称す。

権力者による欲望の拡大が果てしなく続くことになる。

この際限のない欲望の連鎖は、日本各地で燎原の火のごとく広がっていったに違いない。戦闘には大量の武器が必要であり、またそれが大量に消費される。それを補う生産力が必要であった。幸いにも、数万年前の縄文時代に、日本は世界最古の土器を作り出した。それは火と土と水による創造物である。これに、より高温の熱と鉄が加われば武器は誕生する。そんなに多くの努力と工夫を必要とせず、鉄の生産は各地で始まったと思われる。現在でも、備前焼と備前刀を始めとする同一生産地が各地に残っている。それにより、多くの豪族が生まれる基となった。豪族とは小さな中央集権社会であり、お互いに競うことによって武器の開発が進んでいき、やがては東北地方を中心に反りのある日本刀が開発された。

そして、その最も優れた武力集団が大和政権を樹立することになる。日本書紀によれば2600年前のことである。

当時の天皇のもとに専門の軍事組織が作られた。それを統括するのが物部氏である。「もののふ」の語源となったと言われている。

4~6世紀にかけて、朝鮮半島に日本は出兵することになる。武装した兵士と軍備を、また馬を輸送できる造船技術。そして、消耗する武器の補充の輸送など、高度な計算に基づく軍事侵攻が可能となったのは注目に値したい。いかに優秀な軍隊であっても、十分な補給線が確保できなければ、戦場で消耗し、抹殺されてしまう。残念ながら、この時代の軍人の記述は残っていない。

軍記物語が書かれるのは、平安時代から鎌倉時代にかけて始まる。現代では、平安末期の軍記物語をもとに当時の武士の姿を想像するしかないが、それが武士の始まりと称するにはいささか疑問が残る。

武士同士の本格的な戦闘およびその背景にある彼らの考え方や生活を見事に描いたのが有名な『平家物語』。日本人であるならば、一度は誰もが

読んだことのある物語。現代の武道の根源、武士道の起源の議論は、ここから発するものが多い。

では、次回、武士道の発生とされた鎌倉時代を考えてみたいと思います。

― つづく―

Letter 26 — 第26話

武士道(1)

~武士の誕生~

今年初めより書き始めてまいりましたが、日本民族や武士道を理解する上では、まだまだ十分に掘り下げてはおりません。それには長い日本文化の背景、下地を述べなければなりませんが、ここで一度武士道とは何なのかを考えてみたいと思います。

よく武士の起源についての議論を耳にします。どこまで掘り下げれば武士の起源なのか。多くの異なった意見があります。学問的に争っても、そこに私たちの求める武士の道はありません。では、どこに起源を求めるのでしょうか。

約四万年前に日本に定住した、いわゆる平和な日本民族から考えるのが妥当だと思います。今からたった二千数百年前に大陸から収奪の思想が入ってまいりました。強い者が弱い者を制する。暴力によって支配する。支配者が正義を作る。つまり武士とは人が争い始めた時に生まれたものである。日本の歴史でいえば、弥生時代がそれにあたる。三万年以上に及ぶ平和な時代には、人を殺傷する武器がほとんど発掘されていない。弥生時代になると一転、殺傷武器が大量に出土する。

では、いわゆる縄文と弥生の違いはなんだろうか。これは土器の形状の違いである。装飾性の多い縄文時代の土器から、弥生時代は合理的で装飾がない現代の器に似た土器が現れる。それは、大陸の影響である。文京区弥生町から初めて発見されたので、弥生土器と名付けられたに過ぎない。「弥生」は多くの意味を持っている。それは日本民族にとって革命的な又、悲劇的な変化であり、それは今も続いている。

弥生時代以降日本は、他人や他部族、また他国の富を奪い、自分たちが豊かになる考え方へと変わっていった。ある意味、これは現代の資本主義の基なすものであろう。まさに現代でも続いている悲しい文明とも言える。

例えば、最近では第二次世界大戦の要因になったドイツのナチス政権である。ナチスはきわめて短期間に発展した。それは、第一次世界大戦の賠償支払いのために、極貧をなめる辛いドイツ民族に夢をあたえた。

では、どのように短期間で極貧から脱し、経済発展したのか。ナチスは短期間で急速に世界最強の機動部隊及び航空兵団を作りあげた。そのための莫大な資金はどこから出たのであろうか。簡単に言うと借金でそれを賄った。膨大な借金が表面化しない仕組みを密かに作り、その借金によって軍備の拡張が可能となった。それによって経済が回復し、大量の失業者が職を得ることができた。そして、数年後の借金返済の期間が迫る時に、返済原資のなかったドイツは、まずオーストリアを侵略することによってその原資を得た。そしてさらに膨大な借金を膨らまし、強大な軍隊をさらに拡張し、その償還原資獲得のためにさらに他国を侵略していった。私たち人類が 1万年に及び作りだした収奪の構図をみごとに短期間に実現していったに過ぎない。

つまり、日本国にとって弥生時代はまさにその収奪文明の始まりであり、世界から後れを取って収奪文明がスタートした。侵略をうけたら、それを防ぐために武装しなければいけない。それが武士の起源ではないだろうか。つまり、子供が生まれた時に、女性は母親となり、男は父親となる。つまり争いが生まれた時が武士の誕生である。

Letter 25 — 第25話

神とGODの違い(4)

~神道は仏教を受け入れる~

古代日本には、自然の中に神聖な力を感じ取り、それと調和して生きるという精神がありました。自然そのものが教えであり、生活そのものが信仰だったからです。

そこへ仏教が伝来します。

六世紀に仏教が伝来した時も、日本人はそれを拒絶することなく受け入れました。なぜなら、仏教の教えの中にも、人としての正しい生き方や自然への敬いという共通する精神があったからです。

仏教は約二千五百年前、古代インドの釈迦によって説かれ、その後、中国を経て日本へもたらされました。生と死、苦しみと救い、人間の心の在り方について探究した仏教の思想は、日本人が古くから感じていた自然観や生命観を、言葉と理論によって表現する役割を果たしたのです。

日本人は仏教を単なる外来宗教として受け入れたのではありません。特に死後の世界、人は死ぬと行く、あの世、つまり冥土の世界は神の世界と現世の間にある世界として、受け入れ易かったのでしょう。そこに自らの精神文化と共鳴するものを見出し、神道の世界観と融合させていきました。こうして神仏習合という、世界にも類を見ない独自の宗教文化が形成されていったのです。やがて仏教は貴族社会だけでなく武士の間にも広がっていきます。

武士の世界は、常に生と死が隣り合わせでした。戦場では敵を討ち、自らも命を落とすかもしれません。しかし日本人の根底には、敵も味方も同じ天地自然の中に生きる存在であり、死後は再び大いなる魂の世界へ帰っていく感覚がありました。

そのため武士たちは、戦いによって命を落とした者たちの敵味方の区別なく魂を慰め、供養することを大切にしました。そこには単なる宗教儀礼ではなく、命あるものすべてに対する深い敬意があったのです。

例えば、二度にわたる蒙古の襲来によって、敵も味方もおびただしい死傷者が出ました。特に蒙古は嵐によって数え切れぬほどの損害を出し、おびただしい死体が、浜辺に打ち上げられました。武士たちはそれを拾い集め、ていねいに弔いました。

時の執権北条時宗は、敵味方を問わず戦没者の霊を供養するため鎌倉に円覚寺を建立しました。同じ生命を宿した者として、平等に弔う日本人の精神が表れています。

まさに武士道の一端がうかがわれます。

神道と仏教は対立することではなく、日本という風土の中で互いに補い合いながら発展してきました。そしてその融合によって育まれた精神文化は、武道のみならず、今日の私たち日本人の価値観や美意識の中にも、なお静かに流れ続けているのです。

Letter 24 — 第24話

神とGODの違い(3)

~八百萬の神々は経典がない

國學院大學学長を務めた河野省三は、「日本人には信仰がない」と語ったことで知られています。もちろん神を否定したわけではありません。信仰とは、本来、自己と対象を分け、その対象を信じることで成立します。しかし日本人は自然と対立する存在ではなく、自らもまた自然の一部の小さな存在として生きてきました。

自然を敬い、感謝し、祈る。

正月になれば神社に参拝し、春には豊作を祈り、秋には祭りを行い、神や祖先に感謝する。その営みは信仰というよりも、生活そのものであったと言えるでしょう。いや、今も私達日本民族は、その様に生活しています。

7~8世紀頃に「神道」と命名、仏教と異なる日本民族の精神を後世に伝えるために名付けられた「道」であったと思われます。

さらに時代がたつにしたがって武士道が生れ、商人には商道が生れました。また茶道や華道、香道など、日本には数多くの「道」があります。

この「道」とは、人間が宇宙や自然の大きな流れの中で調和しながら幸福に生きるための指針を意味しているのではないでしょうか。神道もまた同様に、大自然の摂理に沿って生きるための道であったのでしょう。そのため神道は、他の宗教と競い合うものではありませんでした。

神道には経典がありません。しかし、それは教えがないという意味ではありません。自然そのものが経典なのです。春夏秋冬の移ろい、昼と夜の循環、太陽と月の運行、生命の誕生と死。そのすべてが私たちに生き方を教え続けています。

現代社会は便利になりました。しかしその反面、人は自然から遠ざかり、大宇宙の中に生かされているという感覚を失いつつあります。夜空を見上げることも少なくなり、季節の変化を感じる機会も減りました。だからこそ今一度、私たちの祖先が見つめていた世界に心の眼を向ける必要があるのではないでしょうか。

神とは何か。

それは遠い天上に存在する特別な存在ではなく、この天地自然を貫く生命の働きそのものであり、私たち自身の中にも流れている大いなる力なのかもしれません。

神とゴッドの違いとは、単なる言葉の違いではありません。それは自然と共に生きてきた日本民族の世界観そのものの違いであり、私たちが未来へ伝えていくべき大切な精神文化の一つであると思います。

これからは英語など外国語に翻訳する時でもGODではなく「KAMI」(神)を用いて明確に区別しようではありませんか。

「マンガ」が国際語になったように

― つづく―

Letter 23 — 第23話

神とGodの違い(2)

古代人は、この世の根底に流れる目に見えない力を感じ取り、それを神と呼んだのではないでしょうか。

それは人格を持つ存在ではありませんでした。怒り、喜び、裁きを与える絶対者でもありません。山にも神が宿り、川にも神が宿り、一木一草に至るまで神が宿る。そして人間の命にもまた神からあたえられた霊が宿る。そのような世界観が、日本人の神の原点であったと思われます。

また、人間は豊かになればどうしても驕りが出ます。欲も過分に生まれてきます。人を支配しようとする気持ちも芽生えてきます。そこに突然、大地震や大噴火、また津波など自然災害が起きます。それによって、自分たちが神の世界の中で生かされているちっぽけな存在であることを痛感し、原点に戻ります。

ここに日本の神の重層的な民族の中に根ざしたものがあるのではないでしょうか。

後の時代に「八百万の神」という表現が生まれました。しかし、それは神の数を表しているのではなく、この世界のあらゆるものに神聖な働きが宿っていることを意味しているのでしょう。

日本には神社仏閣、道祖神、お地蔵さんなど、神を祀るものが無数に存在します。これは世界でも日本だけの特徴であり、私たちは神々の中に暮らしていると言っても過言ではありません。物は見えてもその中にあるエネルギーは見えない。電気が通らなければ電化製品はただの物体であるように、古代の大和民族は自然界のエネルギーの中に神々を見いだし、それが八百万の神という表現につながっていきました。

私たちが食事の前に「いただきます」と言う。

それは単なる挨拶ではありません。人間は万物の命をいただいて生きている。人、物との関わりで生きている。野菜や穀物、魚や動物は私たちの命を支えてくれている。その尊い命をいただくという感謝の言葉です。その生命のエネルギーによって私たちは生かされていることを、受け継いできた日本民族の心なのです。

― つづく―

Letter 22 — 第22話

神とGodの違い(1)

~古代人の「神と自然宇宙」の信仰(信念)~

稽古を始める時に、まず、神に向かって礼を取ります。この神とは、もちろん武道を司る神であり、私たち流派は、香取神宮の神に礼を取っております。

しかし、海外では私たちの伝統ある神への挨拶が受け入れられるかどうか、甚だ疑問とするところであります。特に海外の多くの国では一神教です。そこで、海外の神と私たちの神との違いをここで考えてみたいと思います。

私たちが何万年にわたって手を合わせてきた神を「神(カミ)」と表記します。

私たち日本民族の精神文化を考える時、「神」という言葉について改めて見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

これから数回に分けて、私たちの神とはどのようなものなのであろうか、述べていきます。

現在では「神」という言葉は、キリスト教やイスラム教などでいう「GOD」と同じ意味として使われることが少なくありません。しかし、本来この二つは同じものではなく、その背景にある世界観も大きく異なっています。

明治時代、西洋文明が大量に流入した際、翻訳の都合上、「GOD」は「神」と訳されました。それによって、日本人が古来より抱いてきた神の概念と、西洋における唯一神の概念が、あたかも同一のものであるかのように誤解されてしまいました。しかし江戸時代まで、日本人はキリスト教を例えば「切支丹」あるいは「ヤソ教」と呼び、自らの「神」とは明確に区別していました。

三万年に及ぶ私達の精神文明は、経典を持ちません。他方、ゴッドと称する他国の宗教には経典があります。神道では、自然そのものが経典であり、とても人間が作った文字では書き表せない深いものがそこに秘められているのです

では、私たちの祖先が感じていた神とは、一体どのような存在だったのでしょうか。

長い年月をかけて日本列島に定住した人々は、まず豊かな自然と向き合いました。春になれば大地は芽吹き、冬の間眠っていた生き物たちは目を覚まします。夏には生命が満ちあふれ、秋には実りをもたらし、冬には再び静寂の中へと帰っていきます。

誰かに命じられたわけでもなく、自然界の生き物たちは季節に従って行動します。雪の下から芽吹く草木も、海を回遊する魚たちも、空を渡る鳥たちも、それぞれ見事な調和の中で生きています。

なぜ種子は芽を出すのか。なぜ太陽は毎日昇るのか。なぜ月は満ち欠けを繰り返すのか。なぜ人は生まれ、そして死んでいくのか。

古代人は、その姿の中に大いなる力(神)の存在を感じたのでしょう。

現代人は科学によってその仕組みを説明します。しかし、説明できることと、その本質を理解することは別です。

― つづく―

Letter 21 — 第21話

相馬野馬追(3)

現代でいう武士道は基本的には馬に乗らない芸であり、継承されている剣術もそれのみと言っていいだろう。当然現代はそれでいいと思うが、しかし、いにしえの精神は大事にしていくべきだ。

野馬追により事故が発生したのを大々的にテレビで放映された。その直後に大会関係者と話をした。来年どのように安全に運営するか頭を悩ませているそうである。

私ははっきりとお伝えした。

「これは観光行事ではなく、神事と武芸伝承の大切な伝統行事である。危険ならば、見物客をより安全なところへ誘導すればいいだけのことである。本筋をつらぬくべき、、、、、」

昨今観光という名のもとに、神社仏閣も含め、それにふさわしくないような服装、いでたちで入る人があまりにも多すぎる。いわゆる物見遊山であろう。それは、本末転倒である。

「観光」とは「sightseeing」と違う。「sightseeing」は見物である。「観光」とは現地で物を見るだけでなく、体験をし、そこで新たな知見

を養い、自分の成長に役立てていくことを意味する。

相馬の野馬追の方々は、自分の資金でこの日のために馬を養い、傷んだ甲冑も自らの費用でそれを修復していく。大変な努力と多額な費用がかかっている。それでも伝統行事を続けている地元の人々に感謝をしたい。ある人が、そのようなお金がかかるのであれば、特別観覧席を設けて、高額の入場料を取ったらよいのではないかと提案した。

インバウンドは、それでも見物に来るのではないか。収入も増えるのではないかと。しかし、主催者は嫌な顔をして聞いていた。彼らの思いはそこにはない。それを私は痛いほど見て取れた。また、その心が素晴らしいと思った。

今、日本全国がインバウンドで溢れようとしている姿が見て取れる。しかし、その様な風潮でも相馬の人々は千年以上にわたり、相馬家を中心としたこの伝統行事を守り、先祖に対して敬いの心を重ねている。それゆえ、日々の生活を切り詰めてでも、この神事としての伝統ある野馬追を継続している。それにかける彼らの心、努力に敬意を表したい。

貴重な体験をさせてもらった。

深く感謝している。

私が所属していた東京倶楽部に馬頭観音の碑がある。馬は人間の楽しみの為に生涯をついやしてくれる。その感謝と供養をする為に建てられた。年に一度、明治神宮の神主により、感謝、供養と乗り手の安全の祈願祭が催される。

日本ならではの小さな祭だ。

馬頭観音祭でいつも感じることがある。本来、馬は人を幸せにするために神から与えられた生き物。農業や物の運搬や人の移動など、人の幸せに役立つ。しかし、私はスポーツや競技に使い、馬を楽しみの道具としてしまっていることにいつも申し訳なく思っている。しかし、もっと切ないのは、馬を戦の道具とし、そして、おびただしい数の馬がそのために戦場で命を落とした。兵士は傷つけば病院に行く。

しかし、馬は怪我した時は射殺される、、、

私たちは、馬に心から詫びなければいけないのではないか。

人間というのは賢くもあり、愚かでもある所以かもしれない。

Letter 20 — 第20話

相馬野馬追(2)

~ 馬は神から与えられた動物である ~

馬は口の両歯の奥に空洞があり、そこに轡(はみ)を挟むことによって手綱が使える。他の動物には奥歯が邪魔をし、それはできない。人間の口もしかりである。なぜそのような空洞が存在するのか。まさに奇跡と言ってよい。そして背中の形状。これは馬に人が乗りやすいような湾曲をしている。そして従順で大人しく、また乗り手の心が通じやすい性格を持っている。反面、臆病でもある。それゆえ、敵を突撃するには訓練が必要である。幸いにも馬は近眼であるがために、近くまで行かないと敵や障害物を確認できない。しかし、それを見た瞬間に馬は横へ逃げようとするが、それをそのまま行かせることが乗り手の技量である。馬術の障害レースで柵の手前で馬が逃げてしまうのは、まさにその現象であり、乗り手の力不足でもある。

戦闘体系において馬が主力になった要因の一つは太刀の発明がある。もともと東国の人々は、反りのある短い刀、蕨手刀(わらびてとう)を使用していたが、馬に乗ることによって刀の優位性も考案した。馬上から直刀を抜くのは難しい。現実に試みてみたが危険な動作である。それを太刀にすることによって、つまり刀に反りがあることによって抜きやすくなる。

これが実践から考察された日本刀の反りの発明だと思う。平安時代頃まで東国の武士の強さに悩まされていたのも、それが大きな要因の一つともいえる。

多くの神社に馬を奉納する儀式がある。神はこの世に馬に乗って、降りてきたと伝えられている。その為、今でも白馬を神社に奉納する習慣が残っている。馬のいない地方は代わりにそれを絵に描いて奉納し、それが「絵馬」の発祥の一つと考えていいだろう。

昔の相馬野馬追は馬を野にはなち、それを追い、捕えることを軍事訓練とした。現代の野馬追は馬を放して追う代りに、花火の筒から発射されたものを取り合う方法へと変わっていった。テレビで見る野馬追はその三日間のなか日の一大イベントである。

当日は、幸いにも野馬追の主催者から特別にフィールドに入れさせてもらった。しかし、風向きによっては空に放たれた見印が当方へ流れてくる可能性もある。騎馬団に巻き込まれると大変なことになるので、馬防柵の外側に出て見学した。しかし、一部の観客が馬を見たさ、可愛さの気持ちもあったのかもしれないが、ゴール内側に入ってしまった。場内アナウンスが幾度もフィールドに入らないように警告をした。それにも関わらず、居残る人が多かった。最後には大会が開始できない旨のアナウンスまであった。

残念ながら、そのゴール近辺にいた人だと思うが、騎手が落ちて放馬し、その馬に接触する事故が発生した。このような行事では、落馬が当然起こりうる。放馬された馬が興奮のあまり走り回ることは予想される。

その暴走馬を止めることなどできず、大人しくなるまでは、ある程度走らせるしかない。その怖さを知っている我々は絶対に柵の内側には入ることは避ける。怪我された方は気の毒だと思うが、馬の怖さを体験で知り得たことは、ある意味幸運なことなのかもしれない。自ら招いた事故とも言える。

現代はあまりにもバーチャルであり、知識が優先し、現実の怖さというものを体験する機会が少ない。

私も五十年以上にわたり馬術を体験する機会を得た。一時は死ぬような大怪我をし、中断もしたが、恐怖心を克服して、続けることができた。長い間のことなので、骨折や骨のずれなどを経験した。あまり覚えてはいないが、最低でも十回以上はあったと思う。

救急車で運ばれる大怪我をした時は、回復した後は、馬に乗る気力が失せてしまった。馬にまたがると、その時の記憶が蘇り、洒落とは言えないが「トラウマ」になる。昔の武人は、そのようなものを幾度か経験し、強靭な騎馬武者に育っていったかと思うと、驚きを隠せない。

一 つづく 一

Letter 19 — 第19話

相馬野馬追(1)

相馬野馬追が本年5月22日から3日間にわたって開催された。テレビでも毎年放映され、日本の伝統行事として有名である。この起源については定説がいくつかあるが、現地では平将門が奨励し、その後今日に至るまで千年以上に及び続けられてきたものである。

昔と異なり、現在は規模が縮小し、四百騎ほどの騎馬武者が参加している。それでも大変な規模であり、現実にそれを拝見すると、その威容さに驚きを隠せない。全員が甲冑をまとい、太刀を佩き、まさに戦国武将の姿である。

平将門は関東に新しい国を興そうとくわだて、朝廷から見れば謀反人である。当時の平安貴族は、農民の苦しみを厭いもせず、自らの栄華と繁栄を享受していた。その苦しみから農民を救うべく、平将門は関東において農民を中心とした国をつくろうと企図した。

神武天皇以来、天皇を守る武者が、天皇に対し初めて反旗を翻し、堂々と戦を挑んだ。

平将門は不運にも流れ矢に当たり死亡し、その新たなる国造りの夢は絶たれた。しかし、それ以降、坂東武者が一大勢力を拡大、鎌倉時代の擁立に至っている。

その背景には馬が活躍している。馬は二世紀から四世紀頃に日本に来たと言われる。日本の東国(近畿地方より北を指す)は馬にとっては最高の繁殖地であった。朝鮮半島や中国では見られぬほど馬を中心とした一大騎馬軍団が誕生する素地にもなった。馬が好む草や飼育や繁殖のための藁などが豊富に産したことによる。

「一騎当千」というように戦場における馬の優位性は揺るぎないものであった。この騎馬軍団を制した者が日本を制したと言っても良い。

その最初は大化の改新時の壬申の乱でも推測できる。劣勢の大海人皇子(後の天武天皇)は、東国の騎馬軍団を味方につけたことにより、圧勝してしまった。

後の武田信玄、上杉謙信、真田幸村などが、強さを発揮するのもこの騎馬武者軍団の活躍による。

騎馬武者は基本的に刀はつけているものの彼らの主要な武器は弓である。馬で疾風のごとく敵に近づき、弓の射程距離に入ったら矢を放ち、そして即座にそこから離れ、すぐに次の矢をつがえて敵に再度攻撃をしていく。矢が尽きれば猛烈な勢いで敵に突進していく。馬の迫力は歩兵の戦意を消失し、戦場は混乱を招いていく。それは実際に馬の暴走を近くで体験した者のみがわかる恐怖心である。だが、その馬を自在に戦場でこなすには大変な労力と日々の修練がいる。己に合った馬を見つけ、それを飼い慣らし、そして危険な戦場でも主人の命に従い行動するべく調教をしていく。現代のテレビドラマでは出てこない練習風景を紹介しよう。馬を走らせ、手綱から手を離し、そして思うがままに馬を右に左に操り、またその速度も調整していく。

和鞍はその形状によって馬をコントロールしやすくなっている。しかし、落馬をすれば骨折は免れず、また馬と共に転倒すれば、下敷きになった場合は内臓破裂で死ぬ。安易に馬の後ろへ行けば、胸を蹴られて即死の恐れすらある。危険な練習が毎日続き、その馬上で弓を射かけ、また刀を振り回す練習も行わなければならない。それには強靭な腹筋、背筋を必要とし、また軸や体重の移動による繊細な心遣いが馬に伝わらなければならい。

Letter 18 — 第18話

乙巳(いっし)の変と高市政権のつながり

不思議なつながり ―エピローグ―

~偶然と必然~

前回まで数回に分けて、千数百年前に起きた歴史的大事件、乙巳の変と、現在の日本で初の女性首相誕生の不思議な類似性をみた。

これは偶然なのだろうか。

歴史は繰り返さないと言われているが、似たような現象は繰り返し起きている。では、私たちはそこから何を学び、良き社会を作り上げていくのか。その知恵が文明の進歩を切り開く道ではなかろうか。

偶然と思える中からその根底に流れている必然を見つけ出す。そこに真実が見える。人間としての真の姿がわかり、己を見つめ、成長の糧としていくべきではないでしょうか。偶然に見えることも、大きな視点で見ると共通する流れが見え、必然に思える。古代より今日に至るまで日本民族は、異文化との接触を繰り返してきた。まず素直に異文化の全てを受け入れ、その中からよいものを吸収した。その際に我々の伝統や文化を破壊するものにもある程度寛容な心で許容する。しかし、あまりにも度を超すと「堪忍袋の緒が切れる」の如く、一致団結して排除した。

偶然と必然は同じことなのかもしれない。偶然起きたこととして流してしまう軽率な現代社会。

忙しい現代人は、何事も深く探求もせず、やり過ごしてしまう。貴重な知恵の財産を捨てていくようなものではないだろうか。

大化の改新以降、初めて元号が採用された。最近では明治以降、大正、昭和、平成、令和と続く。ここで面白いことに気がついた。明治とは「明」るく「治」める時代の幕開けとも読める。そして、大正の「大」、昭和の「和」。これは「大和」であり、平成の「平」、令和の「和」は「平和」となる。

「明るく治める大和の平和」と読める。

これは偶然なのだろうか。見えざる力が私達を導き動かしているのだろうか。

終わりに

乙巳の変で「剣をもって国を正す」であった。

そして今 「武と知をもって国を護る」

時なのかもしれない

柳心照智流 渡邊喜雄

Letter 17 — 第17話

乙巳(いっし)の変と高市政権のつながり

不思議なつながり(4)

乙巳の変は、現在の奈良県明日香村周辺で起きました。当時、国政の中心は女性の皇極天皇(のちに斉明天皇として再び御即位)でした。

そして、「乙巳」の変の干支(60年周期)が23回繰り返されたのが昨年の2025年になります。

ここで不思議なことに、同じ奈良県出身の高市早苗氏が女性初の内閣総理大臣になりました。古代の皇極天皇が政治の大きな変革期に立ち会ったように、高市氏も日本の大きな転換期の中心にいます。そして、高市早苗氏は、日本国における大陸の影響を今強く排除しようとしております。不思議な一致です。

現代の私たちも、新たなる国づくり、国のビジョンをまとめる大切な節目を担っているのではないでしょうか。

また、乙巳の変が成功して日本を再度神国として再建しようとしていた時に古代最大の戦い、壬申の乱が起こり、その後、天武天皇の時代に入ります。その長男の皇子が、実質、壬申の乱を勝利に導いた立役者です。それが‘高市皇子’です。何か不思議な偶然を感じます。

このように乙巳の変と現在の高市政権の登場は非常によく似ています。

また古代では天皇の御心によって政治がなされました。一方、現代は民主主義の時代です。国民の心で動いていく制度と言えます。特にSNSの登場で、国民にすべての政府の動き、行政の動き、司法の動きが見えるようになりました。そこで誕生したのが高市政権です。支持率も70パーセント前後を維持しております。今まさに日本国民は、新しい時代の幕開けを望んでいるのではないでしょうか。私たち武道を学ぶ者にとって、全国民が豊かで平和な日本に暮らせるよう、新たな武人となっていくべきではないでしょうか。古い武士道を継承しているとはいえ、数百年経てば、それは少しずつ変わってしまっています。しかし、その精神は不変です。再度我ら日本国民が武人として活躍できる、その新たな流れが始まったのではないでしょうか。

過去にいくたびも日本は、外国から多大な影響を受けた。しかし、その都度、排除をせず、まず取り入れ、日本の文化に足りないものを補足し、消化していった。そして、不要なものは排斥し、成長を繰り返していった。

今、日本は、中国を始めとする大陸の強い影響を受ける中、しばらくは取り入れ、その実態を見つめています。時間のかかることではある。しかし、国民全員の気持ちがまとまり始めると、大きなうねりが生まれ、大胆な変革を望み、一致団結して前へ動き出す。この二つの事象の根底に流れるものこそ日本文化と言って良いのかもしれません。

― つづく―

Letter 16 — 第16話

乙巳(いっし)の変と高市政権のつながり

不思議なつながり(3)

日本の政治を思うがままに操り、横暴を極めた曽我一族は入鹿の死によって終焉を迎えることになりました。あろうことか、天皇の御前で、しかも崇高なるまつりごと(政治)を行う御殿を血で汚したのです。しかし、あえて剣を持って国を正す。そのための強い意志が伺えます。

蘇我氏は日本書紀で作られた架空の苗字であり、また馬子、蝦夷、入鹿の名前も蔑視した名前に変えたと言っていいでしょう。馬や鹿は四つ足であり、また馬と鹿を足すと馬鹿になります。名前を大事にした貴人たちの呼称とは思えません。また、蘇我一族の他の人たちにも蔑視したような名前がたくさん記録されております。蘇我の漢字から見ても渡来系で帰化したことを匂わせる漢字の用い方です。

また、蘇我氏の御殿は、甘樫の丘の上に構え、天皇の御座所を見下ろすかのような地形です。このような状況下にあって、本来の大和民族の精神をもう一度呼び起こし、新たなる秩序を作りあげる。神国日本の再生を目指そうとしたのがこの乙巳の変かと思われます。

蘇我氏を滅ぼした後、新たな日本の再生が始まりました。日本の歴史で初めて元号が採用され、「大化」と命名されました。そして、712年に『古事記』が完成、その8年後に『日本書紀』が完成します。これが現代の日本人の古代を語る上での元となっています。これを「記紀」と称します。

古事記には仏教の記述がありません。まさに我ら大和民族が古来から大切にしてきた八百万の神々の思想、精神が描かれております。日本書紀では、仏教と区別するために、日本古代よりの神々への思いを「神道」と称し、仏教より明確に区別しました。乙巳の変に至るまでの大陸からの強い影響を一掃し、区別するためにも、大和民族の精神を明記したものと思います。そして、「大王(おおきみ)」から「天皇」の称号に変えられました。

この大化以前の記録がほとんど日本に残っていません。古墳が作られ始めた三世紀後半以降なんら文章が残されていないのはなぜでしょうか。新たなる日本の歴史をスタートさせるために、それ以前の記録をあえて徹底的に破棄したのではないでしょうか。

大陸の影響を色濃く残した記録を日本の歴史から汚れたものとして廃棄し、新たな日本の歴史を作り上げたのではないでしょうか。この渡来系の象徴とも言われる蘇我一族。特に独裁政治を極めた馬子の墓は国内最大級の大きさを持っていたと推測されるが、今は玄室(石舞台と称す)のみが残されている。

推測するに、乙巳の変以降、蘇我本家滅亡の際に、完成したばかりの蘇我馬子の墓は完全に暴かれ、遺体はもとよりすべてが持ち去られた。しかし、見せしめとして玄室(石舞台)のみを残したのではなかろうか。また、甘樫の丘の豪華な宮殿の跡もすべて暴かれ、そこには豪華な庭園があったに違いないが、跡形もない。当時、庭園で使われていた大きな石などはすべて持ち去られ、飛鳥村周辺もしくは山中に捨てられたものと推測される。このように徹底した排除が行われるに至った日本民族の怒りは凄まじいものであったと推測する。

当時の人々の日本への愛国心、そして日本民族によって新たに作り上げる決意は、大変なものではなかったか。

「記紀」は、八世紀のものです。新たなる秩序を作るべく編纂され、再生日本がここで誕生したものではないでしょうか。

「記紀」によって「大王」から「天皇」の称号が正式に使われて以来今日まで、その天皇のもとに日本国が成り立っています。大化の改新で神道を国体の中心とする大和の民族の誇りを堀りおこしました。

― つづく―

柳心照智流 渡邊喜雄

Letter 15 — 第15話

乙巳(いっし)の変と高市政権のつながり

不思議なつながり(2)

やがて武器を覚えた人々は、力と富を獲得することにむかってゆきます。それにより各地で権力者が生まれ、豪族が発生。その豪族の強力な武器や、権力によって富がさらに集中。やがて墓地の大型化が競われるようになります。これを古墳時代と呼ばれております。各地の豪族を束ね、頂点に立つ大きなピラミッド型組織が大和政権です。さらに全国統一を目指すためにも、大陸の進んだ文化をより積極的に取り入れ始めました。大量の知識人が大陸から招聘され、また彼らも喜んで渡ってきたと考えられます。そして仏教も持ち込まれました。仏教思想を中心とする大陸系文化人たちが大和地方に集まり、乙巳の変が起きる直近では、宮廷の四割近くが大陸系の人に占められるようになりました。まさに日本国の政治が乗っ取られようとしていました。古来からの八百万の神思想を駆逐するかのような勢いの仏教と大陸思想。大混乱期に突入していきました。これを昔の美しい日本に戻すべく、大きなうねりが始まりました。そのうねりの頂点が乙巳の変と考えられます。

「乙巳」とは、今でも一部使われている暦を表す

ものです。「干支」と言われています。六十年に一つの節で完結し、さらに繰り返してゆきます。干支では乙巳(いっし)を「乙巳(きのと・み)」と呼びます。この乙巳の変は西暦六四五年、飛鳥時代に起きた歴史的大事件です。後の大化の改新の元となります。宮廷に参内した蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺。それまで政治を思うがままに操っていた蘇我本家が滅しました。

その約十年前に、蘇我馬子が物部氏を滅ぼしました。物部氏は、仏教を尊重するも、古来からの日本の神道を中心に敬うことを強く主張した一族です。天皇のもとで武力を直接管理する物部氏は、大和統一に多大なる貢献をしました。一方、大陸系の強い影響を日本の朝廷にもちこんだ蘇我氏にとっては、邪魔な存在だったと推測されます。そのため蘇我氏によって、物部氏は排除されました。これ以降、仏教勢力が全国に拡大していきます。

それにより大陸の影響が朝廷にまで及び、蘇我一族によって、天皇の政治さえも動かしてしまう巨大な力を有していきました。天皇の妃には蘇我氏の女性が嫁ぎ、まさに国をのっとったと言ってよいでしょう。

さらには蘇我氏の意向に反した崇峻天皇は、蘇我馬子の命令により暗殺され、葬儀も行われず、翌日に葬られてしまいます。なんという横暴で、天皇をもないがしろにする専横政治がここに行われたのでしょう。

― つづく―

柳心照智流 渡邊喜雄

Letter 14 — 第14話

乙巳(いっし)の変と高市政権のつながり

不思議なつながり(1)

前回、四季の移ろいの言葉について述べました。春、夏、秋、冬は、美しい言葉です。しかし、その言葉は今からわずか千数百年前に作られたと考えられます。しかし、

その言葉の源を振り返ってみると、古代大和民族の精神が色濃く反映されたものと考えてよいでしょう。自然の移り変わりは神の計らい事と考え、神への感謝を称えてきたものと考えられます。今では節分は二月にのみ行われますが、むかしは節分は、季節の変わり目毎にお祭りを行ったものでした。

三万年以上続いた平和で豊かな生活を享受していたところに、今から三千年から二千五百年前に、大陸との交流が始まり、終焉を迎えます。

武器を持って人の富を奪う収奪文明の始まりです。それを弥生時代と称します。

武器をもって、今まで親しかった人たちを従わせ、その隣人が作った作物や生産物を取り上げ、自らは支配者となっていきました。いわゆるピラミッド構造の社会に作り変えられていきます。それまでは、丸い輪の文明でした。輪の中心に全体をまとめる調整役はいましたが、その人たちも生産活動に参加し、ともに平等な社会で平和に暮らしていました。

かたやピラミッド社会では、頂点にいる者の権力を維持するために軍備が整えられ、また、国(地域)をまとめるための行政機構が作られ、整備されていったのです。その膨大な費用を農民から調達しました。権力によって、また武器を持って、生産物の一部を奪い取ったのです。これを、「徴税制度」として合法化し、現代に至る体制になってゆきます。税法や各種法律を整備するために中国の漢字が導入されました。今までの魂の入った言葉ではなく、冷たい行政上の言語に変わっていったのです。これを言語の発達と学問上は言いますが、あくまでもピラミッド社会の冷たい統治の言語です。

この大変化が日本の伝統文化を大きく歪めていくことになります。

各地で権力者によって富が集中し、やがて豪族が発生します。その豪族の強力な武器による、また権力によって富がさらに集中し、やがて墓地の大型化が競われるようになります。これを古墳時代と呼ばれております。各地の豪族を束ね、頂点に立つ大きなピラミッド構造が大和政権です。さらに全国統一を目指すためにも、大陸の進んだ文化を取り入れ始めました。大量の知識人が大陸から招聘され、または彼らも喜んで渡ってきたと考えられます。そして仏教も伝わってきました。持ち込まれました。仏教思想を中心とする大陸系の文化人たちが大和に集まり、乙巳の変が起きる直近では、宮廷の四割近くが大陸系の人に占められるようになりました。まさに日本国の政治が乗っ取られようとしていたわけです。古来からの八百万思想を駆逐するかのような勢いの仏教と大陸思想。大混乱期に突入していきました。これを昔の美しい日本に戻すべく、大きなうねりが始まりました。そのうねりの頂点が乙巳の変と考えられます。

古代大和民族の心を掘り起こし整理したのが、これから述べる大化の改新の頃と考えられます。

乙巳の変は、以前大化の改新呼びました。乙巳とは、今でも一部使われている暦を表すものです。「干支」と言われています。六十年に一つの節で完結し、さらに繰り返してゆきます。干支では乙巳(いっし)を「乙巳(きのと・み)」と呼びます。この乙巳の変は西暦六四五年、飛鳥時代に起きた歴史的大事件です。後の大化の改新の元となりました。宮廷に参内した蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺。それまで政治を思うがままに操っていた蘇我本家が滅しました。

その約十年前に、蘇我馬子が物部氏を滅ぼしました。物部氏は、仏教を尊重するも、古来からの日本の神道を中心に敬うことを強く主張した一族です。天皇のもとで武力を直接管理する物部氏は、日本統一に多大なる貢献をしました。一方、大陸系の強い影響を日本の朝廷にもちこんだ蘇我氏にとっては、邪魔な存在だったと推測されます。そのため蘇我氏によって、物部氏は排除されました。これ以降、仏教が勢力を全国に拡大していきます。

それにより大陸の影響が朝廷にまで及び、蘇我一族によって、天皇の政治さえも動かしてしまう巨大な力を有していきました。天皇の妃には蘇我氏の女性が嫁ぎ、まさに国をのっとったと言ってよいでしょう。

さらには蘇我氏の意向に反した崇峻天皇は、蘇我馬子の命令により暗殺され、葬儀も行われず、翌日に葬られてしまいます。なんという横暴で、天皇をもないがしろにする専横政治がここに行われたのでしょう。

しかし、乙巳の年に蘇我入鹿は天皇の前で殺されました。蘇我氏は日本書紀で作られた架空の苗字であり、また馬子、蝦夷、入鹿の名前も蔑視した名前に変えたと言っていいでしょう。馬や鹿は四つ足であり、また馬と鹿を足すと馬鹿になります。名前を大事にした人たちの呼称とは思えません。また、蘇我一族の他の人たちにも蔑視したような名前がたくさん記録されております。蘇我の漢字から見ても渡来系で帰化したことを匂わせる漢字の使い方です。

また、蘇我氏の御殿は、甘樫の丘の上に構え、天皇の御座所を見下ろすかのような地形です。このような状況下にあって、本来の大和民族の精神をもう一度呼び起こし、新たなる秩序を作り、神国日本の再生を目指そうとしたのがこの乙巳の変かと思われます。そして日本の歴史で初めて元号が採用され、「大化」と命名されました。蘇我氏を滅ぼした後、新たな日本の再建が始まりました。そして、712年に『古事記』が完成、それから8年後に『日本書紀』が完成します。これが現代の日本人の古代を語る上での元となっています。これを「記紀」と称します。

古事記には仏教の記述が一つもありません。まさに我ら大和民族が古来から大切にしてきた八百万の神々の思想、精神が描かれております。日本書紀では、仏教と区別するために、日本古代よりの神々への思いを「神道」と称し、明確に区別しました。乙巳の変に至るまでの大陸からの強い影響を一掃するためにも、また、区別するためにも、その精神を明記したものと思います。そして、「大王(おおきみ)」から「天皇」の称号に変えられました。

この大化以前の記録がほとんど日本に残っていません。巨大な古墳が作られ始めた二世紀以降なんら文章が残されていないのはなぜでしょうか。新たなる日本の歴史をスタートさせるために、それ以前の記録を破棄したのではないでしょうか。

当時の人々の日本への愛国心、そしてそれを日本民族によって新たに作り上げる決意は、大変なものではなかったでしょうか。

「記紀」は、八世紀のものです。新たなる秩序を作るべく編纂され、再生日本がここで誕生したものではないでしょうか。

「記紀」によって「大王」から「天皇」の称号が正式に使われて以来今日まで、その天皇のもとに日本国が成り立っているのです。大化の改新で、神道を国体の中心とする大和の民族の誇りを作り出しました。

そして、乙巳の変の干支(60年周期)が23回繰り返されたのが昨年の2025年になります。

ここで不思議なことに、乙巳の変は、現在の奈良県明日香村周辺で起きました。また当時、国政の中心には女性天皇の皇極天皇(のちの斉明天皇)でした。そして、同じ奈良県出身の高市早苗氏が女性初の内閣総理大臣になりました。古代の皇極天皇が政治の大きな変革期に立ち会ったように、高市氏も日本の大きな転換期の中心にいます。そして、高市早苗氏は、日本の政界や日本国における大陸の影響を今強く排除しようとしております。不思議な一致です。

現代の私たちも、新たなる国づくり、国のビジョンをまとめる大切な節目をになっているのではないでしょうか。

また、乙巳の変が成功して日本を再度神国として再建しようとしていた時に古代最大の戦、壬申の乱が起こりました。その後、天武天皇の時代に入ります。その長男の皇子が、実質、壬申の乱を勝利に導いた立役者です。それは高市皇子です。何か不思議な縁を感じます。

このように乙巳の変と現在の高市政権の登場は非常によく似ているものがある。しかし、歴史は繰り返さないと言われるが、見えざる心の面から観察してみよう。

古代では天皇の御心によって政治がなされました。一方、現代は民主主義の時代です。国民の心で動いていく制度と言えます。特にSNSの登場で、国民にすべての政府の動き、行政の動き、司法の動きが見えるようになりました。そこで誕生したのが高市政権です。支持率も70パーセント以上を絶えず維持しております。今まさに日本国民は、新しい時代の幕開けを望んでいるのではないでしょうか。私たち武道を学ぶ者にとって、全国民が豊かで平和な日本に暮らせるよう、新たな武人となっていくべきではないでしょうか。古い武士道をそのまま継承しても大きな意味はありません。古い武士道を継承しているとはいえ、数百年経てば、それは少しずつ変わってしまっています。今こそ、新しく文化を作るべく、再度我ら日本国民が武人として活躍できるよう、流れが始まったのではないでしょうか。

過去の日本の歴史において、外国から多数の影響を受けた。その都度、異質なものとして排除をせず、まず取り入れ、そして日本の文化に足りないものを補足し、消化していった。そして、不要なものは排斥し、成長を繰り返していった。

今、日本は、中国を始めとする大陸の強い影響を受ける中、しばらくは取り入れ、その実態を見つめています。時間のかかることではある。しかし、国民全員の気持ちがまとまり始めると、大きなうねりが生まれ、大胆な変革を望み、一致団結して 動き出す。まさにこの流れの中で見ると、この二つの事象は日本文化の一つと言って良いのかもしれません。

Letter 13 — 第13話

四季と共に生きる日本民族

私たち日本人は常に四季と共に生活を送っております。世界でこれだけ美しい四季の変化を彩る国はほとんどないと言ってよいでしょう。

長い冬が明け、大地が眠りから覚める時、新しいエネルギーにあふれた生命が、雪の中、土の中から誕生。私達に春の訪れを告げます。つくし、こごみ、ぜんまい、わらび、たけのこなど、数え切れぬほどの新芽が誕生します。私たちは今でもこの新芽を食し、自然の恵みのエネルギーを体の中に取り入れます。春の訪れを心身ともに感じるひとときです。

この自然の営みを魂の動きとして、表現したのが四季の言葉ではなかろうか。春を迎えるとしぼんでいた魂が天と大地のエネルギーに触れ、魂(心)が張ってゆきます。つまり「ハル」(春)である。

そして夏になると、空を覆わんばかりに枝を茂らせ、大地のエネルギーを成長に変え、繁栄の時を迎える。一年で一番の活動の時期である。「ナツ」(夏)とは、物が「ナ」る、物事を「ナ」すなど中身を充実させる言の葉ではなかろうか。

秋になると、次の世代に備えるべく実を作り、種を作る。やがて沈黙するかのように葉を落とし、心(魂)にすきまが出来るつまり空(アキ)が生じて、「アキ」(秋)である。

冬は、静寂の時であり、一年で疲れた身体を癒し、新たなる魂に触ゆる「フユ」(冬)る時を待つ。これらをヤマト言葉として言い表わしたものではなかろうか。

四季の移り変わりは、私達民族の心の移り変わりとも言っていいでしょう。そしてそれは人生にも例えられるものです。春は、誕生の時期であり、活発な成長の時期。夏は、成長した肉体で思い切って人生を活発に過ごす時。秋は、十分に活躍した半生を卒業。次の若い世代を育て見守る時期ではないでしょうか。そして人生最後の冬が訪れる。これを死と言ってよいでしょう。

そして生まれかわり、また春に新しい肉体をさずかり、そこに魂を宿し、人生の再生がスタートする。このように輪廻転生の思想が日本民族に根ざしていったものと思われます。

柳心照智流 渡邊喜雄

Letter 12 — 第12話

長い日本民族のルーツ

さらに日本人になるまでの遠い道のりを深く掘り下げていきましょう。

我々人類(ホモサピエンス)は、アフリカで誕生したといわれています。それ以外にもネアンデルタール人、デニソワ人など数多くの人類の生存が確認されています。

我々は、その中で生き残った唯一の人類です。このホモサピエンスの一部の集団が、十万年近くかけ日本列島に到達したと言われています。

十万年かけてアフリカから日本列島へ到達する。これは来るだけでしたらそんなにかかりません。なぜそれだけ長い時間がかかったのでしょうか。彼らは日本列島の存在を知って移動したわけではありません。アフリカから気候変動や争いの中で、やむを得ず安住の地を離れ、近隣の場所に移住。そこで数百年や数千年が経ち、環境変化で再度移住せざるを得なくなり、その繰り返しによって、最終の到達地、日本に来たのです。その間に、彼らは多くの仲間を失い、分裂を繰り返し、そして、また家族の大切さを認識したことでしょう。内陸を移動する場合は、森林には道はありません。迷路の中を手探りで一歩一歩進み、川は倒木にしがみつき渡ったことでしょう。乳飲み子の為に渇水期を待って、長い時間川辺で過ごしたこともあったでしょう。

そこで、潜んでいる別の人類から襲撃を受けることもあったでしょう。ジャングルでは毒蛇や猛獣、そしてヒルなどをはじめ、人間の生存を脅かすようなものと遭遇しながら、新たなる定住地を見つけていったと考えられます。

また、安全のために海岸線を行くにしても、海岸線は直線ではありません。絶えず蛇行しながら無駄に進まなければいけません。また、嵐で身を隠す場所もなく、近くの森林に居を構えたのかもしれません。さらに人間同志の争いや自然災害で、多くを失いながら生き延び、そこから学んだ絶対的な価値観。こういったものが、彼ら(私たち)の中に蓄積し、知恵となっていたものと考えられます。

そして、辿り着いた先にあらわれたのが、山紫水明の地、食物の豊かな地。日本。神からあたえられた安住の地と感謝したにちがいありません。

そこで「和」(平和、調和)への想い、このような土地をいただけた神への感謝の祈りを初期大和民族の心の底にねづかせていったのではないでしょうか。

Letter 11 — 第11話

日本という柳の木

三回に分けて日本民族の誕生を述べてまいりました。

この民族を生んだ背景には、

一、四季のある豊かな自然、豊富な食料

二、台風、地震、津波、噴火などの厳しい自然とその恵み

三、天然の要塞によって守られ、侵略とは無縁の地形

これを別の視点から見ると、一は「天からの恵み」、二は「天からの諭りと再生」、三は「天からの守り」と見ることができます。つまり、日本民族の独特な文化は、この環境の中で生まれ、育み、三万年に及ぶ平和な社会を築きあげました。

弥生期に入り、大陸より殺傷武器が導入されることにより、平和と戦の相矛盾する中で葛藤し、道を求めて生きてきた日本人。現代の専守防衛に行き着く考え方は、まさに日本民族の生き様と言っていいでしょう。

武士道の本質的な精神の重要性は、このような祖先の長い歩みを深く知ることで理解することができると思います。

柳神照智流の「柳」は、武士道で「根」の深さの重要性を強調しましたが、その根は日本民族のルーツそのものではないでしょうか。見えない根を育てている土壌は、この三つの要素から成り立っているのではないでしょうか。その豊かな養分によって柳は、根をしっかりと三万年以上かけて土の中に伸ばしていったのではないでしょうか。地上に生えた柳の木は、弥生時代以降、厳しい大陸からの侵略思想に流されながらも、今日に至るまで地上に存在することができたものではないでしょうか。

古代日本民族の本質的な精神は、このような祖先の長い歩みを深く知ることで理解することができると思います。

次回は、日本民族のルーツを更に遡ってみてみましょう。

柳心照智流 渡邊喜雄

Letter 10 — 第10話

日本民族誕生の背景

三、天然の要害によって守られ、

侵略とは無縁の地(日本列島は要害の地)

日本の地形は、世界の精神文明中心の国になるべく作られたのではないでしょうか。エデンの園のように恵まれた大自然の中で食糧は豊富にあり、さらに、美しい季節の変化を楽しむ。しかし、ある時は大災害によってすべてのものが一瞬に失われ、自らの絶対的価値観を問い直す機会ともなっております。そして、古い因習やしきたりが破壊され、新たなる時代に向け、創造の機会を与えられたと考えてもよいでしょう。更に重要なのは日本列島そのものが要害の地形にあります。

日本列島は南北には、山が折り重なり背骨のように形成されております。そして東西にはその山から作られる水の流れが河川となり堀の様に走っています。その根元はまた深い谷が作られており、天然の要塞と言ってよいでしょう。もし、海外から大軍で日本を攻めようとした場合、急峻な山を超すには、大変な労力がかかり、馬などは使えません。南北に移動するにしても、深い谷に阻まれ、また広い河川があり、それを渡河するには大変な労力が必要です。

さらに、日本は国境線そのものが海岸線となっている極めて珍しい地形です。大軍をもって海を渡るのも、近場では日本海しかありません。季節によっては、海が荒れて渡ることが不可能と言っていいでしょう。さいわいにも日本列島は、他民族の大規模な侵略を受けない地形を持っております。歩いて国境を渡れる他の国とは違い、膨大な準備とリスクを覚悟して日本を攻めなければいけません。蒙古大襲来にしても、全て海岸線で打ち破られました。

また、高い山があるがために、大量の雨が降り、それが地下水や川となって地上や地下を、絶えず浄化しております。もしこれが大陸であったならば、数百キロに及ぶ高低差の少ない地形では、いったん平地の水や地下水が汚染されると、それが浄化されるまでには何百年もかかると言って過言ではありません。 人間で言えば、日本列島は新陳代謝の激しい若い人とも言えます。これによって、各地は細分化された一つ一つの豊かな文化圏が維持され、また平和な交流によってのみ、広域な文化圏が形成されたと見ていいでしょう。

そして3万年以上にも及ぶ戦のない平和な文明が形成される基になりました。

柳心照智流 渡邊 喜雄

Letter 09 — 第9話

日本民族誕生の背景

二、台風、地震、津波、噴火などの

厳しい自然とその恵み

私たちは、地震と共に暮らしていることを当たり前のように感じていると言って良いでしょう。外国から来る人たちは、私たちが何気なく感じる小さな地震にも怯えます。それは、大陸の人ではなかなか経験しえないことだからなのかもしれません。

古代の日本人は、地震を大地の神様がお怒りになり、その現れと考えておりました。また、その大地の神を鎮めるためにもお祭りなどいろいろな工夫がなされております。芝居に出てくる足で思い切り舞台を踏み、大きな音を立てるのもその一つの象徴です。また、大相撲における四股を踏むのもその一つと言えます。私たちの記憶にある東北大震災はまさにその大地の神が起した大災害と言っていいでしょう。東京に住んでいる私でさえ、立って歩けないほど地面が揺れました。そして、その後に続く東北地方を襲った未曽有の大津波。これによってたくさんの貴重な命が一瞬にして失われました。悲しいことです。

また、大雨では地形が変わってしまうほどの土砂崩れが起き、たくさんの方が亡くなったりもしております。毎年台風が訪れ、それによって多くの水害が発生し、小川があっという間に大きな川に変わり、その周辺の家々が流されてしまいます。

さらに日本は世界有数の火山の多い国です。この火山の噴火によって日常の生活が大きく変わり、その回復に多くの人手と場合によっては長い年月が必要とされます。今から7300年前に鹿児島沖で起きた火山の大噴火、通称アカホヤ噴火は、1 万年に一度しか起きない大災害と言われています。世界中の気候に大きな影響を及ぼしました。その噴火により関東まで火山灰などによる被害を受けました。南九州にいたっては、回復に約 1千年を要したと言われております。

すべてが失われてしまい、奇跡的に生き残った人は、幸運の人と見ていいのかもしれません。その時、私たちは何を感じたでしょうか。身内を失った深い悲しみ、また、周りの人々に起きた同じような悲劇を見て、明日は我が身と感じたのかもしれません。そこに大和民族の根底に流れる、「困っている時はお互いさま」の精神が作られたのでしょう。決して相手を責めるわけでもなく、相手のものを奪うわけでもありません。自分の持っているものが少ししか残っていなくても隣人に分け与える、このような思いやりと憐れみの精神が生まれていったのだと思います。

大噴火で天変地変が起こるたびに、自分たちの長年築き上げたものが一瞬にして失われてしまう、無に帰してしまう「はかなさ」なのです。しかし、破壊の次に来るのは創造です。新たな創造が生きとし生ける全てのものに再び始まります。破壊により失われたものを呪い、悲しみ、憂うより、むしろそれを受け入れ、あえて自らの反省材料とする。神からの啓示として受け取り、新しい平和な安定した社会づくりを再び始めていったのではないでしょうか。外国では創造と破壊の多くは、他民族からの侵略によってなされますが、私たちは大自然から受けるのです。つまり、人為的ではなく、神の意思として受け入れていったのではないでしょうか。死と隣り合わせに生きる。そこには、為す術のない大自然の流れの中に生きる自分たち民族を見つめていたのではないでしょうか。

Letter 08 — 第8話

春の音づれ、桜

長い冬が明け、いよいよ明るい季節の到来です。

春を迎えるに、日本人は桜を愛でて喜びとしたものです。

「さくら」(桜)の「くら」は、漢字で「座」とも書きます。それは、神が光臨して腰掛ける場所の意味で使われます。天皇の即位の時に使われる特別な場所を「高御座(たかみくら)」と呼ぶのもその由来かと思われます。また、上皇の御印としては、太刀がありました。これは天皇の三種の神器と同等の大切な象徴です。その太刀の呼称の一つが「天座」(アマクラ又はアマザ)と呼ばれるものです。まさに天孫降臨の象徴と見てよろしいでしょう。

しかし、この太刀は、江戸幕府開府頃に後陽成天皇より徳川家康に下賜されてしまいました。特に、今回の先帝崩御後の即位でない受禅即位には、本来ならば今上上皇様の御印に欠かせないものでした。

冬が明け、天から神が降り立つ場所が桜であります。葉が出るよりも前に花が咲き、一年の作物の豊作を占うしるしとしてあがめられました。

「さくら」の「さ」の由来には沢山の説がありますが、田の神を表わすヤマト言語と考えてよいでしょう。

さく(咲く)、さと(里)、さとやま(里山)、さとる(悟る)などは、大和言葉の「さ」の関連とみてよいでしょう。

桜を愛でるというより、桜を祀る、と言った方が伝わるぐらい日本列島を祭りのごとく、南から北へと花を咲かせていきます。

まもなく開花です。日本民族の長く続く大切な伝統を皆さんと共に喜び、心を一つにしたく思います。

Letter 04 — 第4話

平和を愛する精神文明国日本

3回に分けて柳心照智流の神髄を述べさせていただきました。しかし、あまりにも難解な部分もあるため、理解し、身に収めるには、より深い学びも必要かと思います。

これからは、その根底にある日本民族とは、武道とは、そしてそれを学ぶ現代の私達とは、核心になる部分をより分かりやすく深く解説したいと思います。

・「柳の木のごとく」

流派の名称である「柳心」とは大変に深い意味があります。地上に生えた柳の木は風雪にも耐え、平然としている姿は周知の如くです。しかし、その根があって初めてそれを為しえるのです。

柳は、お堀端や川の堤の上に植えられています。なぜそこに植えられているのか。それは柳の木の根の強さにあります。想像以上に柳の根は深く広くしっかりと張り、大地を固めているのです。それゆえに江戸を作る際に新たに掘られた濠やまた川の堤などに植えられたのです。

私たち柳心照智流も、まさに柳の根の如く真理に基づいた知の魂によって、人生の真理を追求していく武道であります。それは、日本民族の歴史であり、また精神に基づくものです。

世界は今、混沌とし、何が正しいのか間違っているのかすら見極める力を失くしております。一つの紛争が終われば次の紛争が起こり、火の消えない山火事のごとくあちらこちらで、燃え上がっております。このような時代において、真の生きた武士道とは何かを問われる時かと思います。

武士道は過去の侍の遺物ではありません。その精神こそ今日の平和を作る礎があるのです。